世界を俯瞰し、明日を拓く学 びのプラットフォーム
『ソニーに学ぶリーダーシップと未来創造』
プロローグ
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変革の時代に生きる私たちへ
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ソニーが投げかける問い
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一人称体験記としての視点
第1部 ソニーの成功とリーダーシップ
第1章 ソニー創業期の精神
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井深大のビジョンと技術者への期待
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盛田昭夫の行動力と国際感覚
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トランジスタラジオの米国市場参入ストーリー
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技術者が主役の社風と工場・研究所の雰囲気
第2章 世界を驚かせたリーダーシップ
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カラーテレビと市場洞察
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ウォークマン誕生の背景
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「ニーズはつくり出すもの」という発想
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世界市場を切り拓いた決断力
第3章 ブランド力とカリスマ経営
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ソニー神話とブランドの拡大
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創業者のリーダーシップスタイル
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社員の誇りと文化の醸成
第2部 転換期に揺れるソニー
第4章 デジタル化の波
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アナログからデジタルへの転換点
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技術部門の混乱と挑戦
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チャンスを掴んだ事業と取り逃がした事業
第5章 組織構造の硬直化
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官僚化する組織
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縦割り構造と意思決定の遅延
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現場社員の声と停滞感
第6章 多角化と迷走
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金融・映画・保険への進出
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家電メーカーから総合企業への変貌
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収益構造の変化とブランド希薄化
第7章 リストラと人材流出
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苦渋の合理化策
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現場を支えてきた技術者の退職
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社員の士気低下と現場の声
第8章 世界に追い抜かれるソニー
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韓国・中国企業の台頭
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アップル・サムスンとの比較
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技術力はあるのに売れないジレンマ
第3部 再生への道
第9章 経営改革と新しい挑戦
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ストリンガー時代の試行錯誤
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平井一夫による集中と選択
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プレイステーション事業の復活劇
第10章 組織文化の再構築
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技術者魂の復権
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社内の風通しを良くする取り組み
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新しい人材育成の仕組み
第11章 カリスマ経営の終焉
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創業者不在の時代
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トップダウンからチームリーダーシップへ
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多様なリーダーの登場
第12章 グローバル競争の新局面
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海外市場での戦略的提携
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M&Aと資本戦略
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グローバル企業としての立ち位置
第4部 未来を描くソニー
第13章 テクノロジーとエンタテインメントの融合
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ゲーム・音楽・映画の一体化戦略
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ハードとソフトの統合による強み
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新しいライフスタイルの創造
第14章 新世代の挑戦
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若手経営陣と新しい発想
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社内ベンチャーとイノベーション文化
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失敗を許容するマインドセット
第15章 グローバル市場での復権
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プレイステーションの世界的成功
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ソニーの映像技術と映画・音楽の展開
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世界的ブランドとしての再評価
第16章 イノベーションの再定義
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生活者視点のイノベーション
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「便利さ」から「意味」への転換
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持続可能な社会に向けた技術開発
第17章 ソニーと社会的責任
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環境技術と脱炭素への取り組み
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社会貢献活動と教育支援
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SDGsと企業価値の新基準
第18章 未来へのビジョン
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AI・ロボティクスの挑戦
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ソニーが描く次の時代の暮らし
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日本発のイノベーションが世界を照らす
エピローグ
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ソニーの歩みが示す普遍的な教訓
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リーダーシップと未来創造の本質
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読者への問いかけ:「あなたはどんな未来を描くか」
序章 ソニーで学んだ30年 ― 当事者としての証言
1985年4月。入社式の日のことを、私は今も鮮明に覚えている。
桜がまだ少し残る東京・五反田の街を歩きながら、胸の奥に高鳴りを感じていた。会場に入ると、新入社員のスーツの匂いと緊張感が空気を満たしていた。壇上に立った役員が「ソニーは世界を驚かせ続ける企業だ」と語ったとき、私はその言葉を全身で受け止め、「自分もその一翼を担うのだ」と強く思った。
最初に配属された部署は、まさに「モノづくりの最前線」だった。上司は厳しくも情熱的で、夜遅くまで回路図を描きながら「お前はまだ発想が小さい」と何度も叱られた。時には終電を逃し、オフィスに泊まり込んだ。蛍光灯の白い光の下、ハンダごての匂いと機械のうなる音の中で、私たちは未来を夢見ていた。疲れていても、誰も「やめたい」とは言わなかった。なぜなら、そこには「世界を変える」という確信があったからだ。
だが、その情熱に陰りが見え始めたのは90年代半ばだった。会議室の雰囲気が、明らかに変わっていったのだ。以前は若手が思い切ってアイデアを出せば、上司は「面白い、やってみろ」と背中を押してくれた。ところが、次第に「前例はあるのか」「リスクはどれくらいだ」という言葉が最初に飛ぶようになった。新しい挑戦よりも、既存事業の維持が優先される。かつてはワクワクした会議室が、いつしか重苦しい沈黙で満たされていった。
そんな中で、私は新規事業を任されるチャンスを得た。世界市場に挑戦できる人材を育てるプロジェクト――胸が高鳴った。夜を徹して若い仲間と未来を語り合い、海外拠点に送り出す研修を企画した。「ソニーから世界を変えるリーダーを輩出する」という夢を、心から信じていた。
しかし、その同じ時期、もう一つの任務が与えられた。リストラの実行だった。
ある冬の日、私は人事部から渡された封筒を手にしていた。そこには、同僚に伝えなければならない「通知」が入っていた。部屋に戻ると、その同僚はいつものようにコーヒーを飲みながらパソコンに向かっていた。家族の話をよくする男で、「来年は子どもが受験でね」と笑っていた姿が脳裏に浮かんだ。私は机の前に立ち、言葉を探したが、声が出なかった。結局、紙を差し出し、彼の目が徐々に状況を理解していくのを見守るしかなかった。その沈黙の重さは、今も忘れられない。
「新しい未来をつくれ」と背中を押される一方で、「仲間の未来を奪え」と迫られる――。この矛盾が、私の心を深く引き裂いた。
やがて、株価は下落の一途をたどり、社員食堂の空気も変わっていった。以前は「次は何を仕掛けようか」と笑い合っていた席が、次第に愚痴と諦めで埋まるようになった。名刺を差し出しても、相手の反応はかつての「羨望」から「同情」へと変わっていった。
思えば、ソニーには力があった。世界を驚かせる技術も、人を惹きつけるブランドも、情熱ある社員も揃っていた。だが、その力を束ね、未来へ導くリーダーがいなかった。優柔不断な会議、責任を曖昧にする文化、決断を避ける経営陣――それらが積み重なり、会社の誇りをむしばんでいった。
私は当時、何度も自問した。
「なぜ誰も決断しないのか。なぜ、あの創業者たちのように未来を描くリーダーがいないのか。」
この本は、その問いに答えるために書く。
ソニーの成功は、リーダーシップによって築かれた。
ソニーの凋落は、そのリーダーシップを失ったときに始まった。
そしてその教訓は、ソニーだけでなく、すべての組織、そして私たち一人ひとりに突きつけられている。
「あなたは成功の呪縛に囚われていないか。未来を切り拓くリーダーシップを発揮できるか。」
――これが、私の30年の体験を通じて読者に伝えたい最初の問いである。
序章 ソニーで学んだ30年 ― 当事者としての証言
1985年4月。
私はスーツに身を包み、五反田の会場に向かっていた。桜の花びらがまだ路肩に残り、春の匂いが漂っていた。胸の中は高鳴りでいっぱいだった。
会場に入ると、壇上に立った役員が語りかけた。
「ソニーは世界を驚かせる会社です。皆さんはその一員です。これから一緒に未来をつくっていきましょう」
その言葉に、私の心は震えた。隣に座っていた同期が小声で言った。
「すごいよな。俺たち、ほんとに世界を変えるんだな」
私は思わず笑顔でうなずいた。「ああ、そうだな。やってやろうぜ」
新人研修は厳しくも熱気に満ちていた。夜遅くまで回路図を書き、ディスカッションを続ける。ある夜、先輩が肩を叩きながら言った。
「お前の発想は面白い。だがな、もっと世界を見ろ。小さくまとめるな」
その一言が、胸に深く突き刺さった。疲れても不思議と気持ちは折れず、むしろ未来への期待が膨らんでいった。
だが、時代は流れる。
90年代に入ると、会議室の雰囲気は変わっていった。以前は「挑戦してみよう」と背中を押す声が響いていたが、やがて「前例はあるのか」「リスクは大きくないか」という言葉が先に出るようになった。会議室の空気は重く、沈黙が長引くことも増えた。私は違和感を覚えたが、そのときはまだ、それが「成功の呪縛」だとは気づけなかった。
そして迎えた2000年代。私は新規事業と人材育成プロジェクトを担当し、未来を担う若手社員と共に夢を語り合っていた。しかし、その一方で、避けがたい「もう一つの役割」を背負わされた――リストラだった。
ある冬の朝、人事部から渡された封筒を手にしたときの重さを、私は今も忘れない。
「このリストに載っている社員に通知をお願いします」
そう言われた瞬間、心臓が強く締めつけられるような感覚が走った。
その日、私は長年一緒に働いた同僚の席へ向かった。彼はコーヒーを片手に、いつものようにディスプレイを見つめていた。私の姿に気づくと、笑顔で言った。
「おう、どうした?また新しい企画の相談か?」
私は言葉を飲み込み、しばし立ち尽くした。そして封筒を差し出すと、彼の表情がゆっくりと曇っていった。
「……まさか、これって」
「……すまない」
それ以上、言葉が出なかった。
彼は書類に目を落とし、しばらく沈黙したあと、小さな声でつぶやいた。
「子どもが受験なんだよな……」
その瞬間、私は胸をえぐられるような痛みを覚えた。プロジェクトで「未来をつくれ」と叫びながら、同じ口で「君の未来はここにはない」と告げなければならない。この矛盾は、私の心を引き裂いた。
株価は下落し続け、社員食堂の空気は変わっていった。以前は「次は何を仕掛けようか」と盛り上がっていた会話が、いつしか「またリストラが来るらしい」「どうせ変わらないさ」という諦めに変わっていった。名刺を差し出しても、相手の反応は羨望から同情に変わり、ソニーという名は誇りではなく重荷になり始めていた。
今、振り返って思う。
ソニーには技術も人材もあった。だが、その力を束ね、未来に導くリーダーがいなかった。創業者が示した「未来を信じて決断する力」を持つ人は、いつの間にか社内から消えていた。成功の呪縛に囚われたまま、時間は無為に過ぎていった。
だからこそ、私は本書を書く。
ソニーの成功は、リーダーシップによって築かれた。
ソニーの凋落は、そのリーダーシップを失ったときに始まった。
そしてその教訓は、私たち一人ひとりにも突きつけられている。
「あなたは成功の呪縛に陥っていないか。未来を切り拓くリーダーシップを発揮できるか。」
――これが、30年の体験から私が最初に伝えたい問いである。
第1部 ソニーの成功とリーダーシップ
第1章 ソニー創業期の精神
井深大のスピーチ ― 技術者への期待
創業間もない頃、井深大は若い技術者たちを前に語りかけた。
「諸君、われわれの使命は単に製品をつくることではない。人々の暮らしを変え、社会を変えることだ。失敗を恐れるな。挑戦する者こそが未来をつくるのだ」
彼は技術者に対して、経営者というより同志として言葉を投げかけた。
「もし失敗したら、経営者である私が責任を取る。だから君たちは思い切りやりなさい」
この言葉は社内に深く刻まれた。若手技術者が新しいアイデアを提案すると、上司たちは「それは無理だ」ではなく「どうすればできるか」を考えた。井深のリーダーシップは、挑戦の空気を全社に広げ、のちのイノベーションの源泉となった。
盛田昭夫の米国での苦闘
一方で、ソニーが世界に羽ばたくためには海外市場を切り拓く必要があった。その役割を担ったのが盛田昭夫だった。
1950年代半ば、盛田はトランジスタラジオを手にアメリカに渡る。当時、アメリカ市場は巨大で、現地企業の支配力も強かった。小さな日本企業が参入することに懐疑的な目が向けられるのは当然だった。
盛田はサンプルを手に、バイヤーや販売店を一軒ずつ訪ね歩いた。しかし最初は相手にされなかった。あるバイヤーはラジオを手に取ってこう言った。
「こんな小さなラジオが本当に役に立つのか?アメリカ人は据え置き型の大きなラジオを好むんだ」
盛田は笑顔を崩さず、胸ポケットにラジオを差し込み、スイッチを入れた。
「ご覧ください。音楽をポケットに入れて持ち歩ける時代が、これから来るんです」
バイヤーは驚いたように目を見開いた。盛田の自信と情熱は、少しずつ人々の心を動かしていった。こうしてソニーのトランジスタラジオはアメリカの若者に広まり、やがて全米のヒット商品となった。
この出来事は、ソニーが「日本の会社」から「世界のソニー」へと飛躍する決定的な一歩となった。盛田の粘り強い交渉と、未来を語る力がなければ、ソニーの歴史はまったく違うものになっていただろう。
当時の社内風景 ― 工場と研究所の熱気
その頃の社内は、まさに「実験室が会社の心臓」だった。狭い工場にはハンダごての匂いが立ち込め、深夜まで白衣姿の技術者が回路図を前に議論していた。
「これじゃ発熱が大きすぎる」「いや、冷却の工夫をすればいけるはずだ」
そんな声が飛び交い、時には机を叩いて口論する場面もあった。だが、そこにあったのは怒りではなく、未来を掴もうとする熱情だった。
机の上には、試作品の基盤や部品が散乱していた。ラジオの試作機からは時折ノイズが響いたが、それすら「次はもっと良くなる」という期待の象徴だった。
社内には、肩書きよりもアイデアを尊重する空気があった。若手技術者が突然「こうすればもっと小型化できる」と提案すれば、上司も耳を傾け、すぐに試作に取りかかる。
「やってみろ」という一言が合言葉のように飛び交っていた。
この自由闊達な雰囲気こそが、ソニーのDNAを形作ったのである。
創業精神としてのリーダーシップ
こうしたエピソードは、ソニー創業期のリーダーシップを如実に物語っている。
井深は「技術者を信じる文化」を築き、盛田は「世界市場を切り拓く行動力」を示した。両者のリーダーシップが融合したとき、ソニーは単なる電機メーカーではなく「世界に挑む企業」へと進化した。
その精神は、後にウォークマン、カラーテレビ、PlayStationといった数々のイノベーションにつながっていく。
言い換えれば、ソニーの創業期は「未来を描き、挑戦を託し、世界に証明する」リーダーシップの実験場だったのだ。
第2章 世界を驚かせたリーダーシップ
ソニーが世界を震撼させたのは、単なる技術力だけではなかった。
そこには「未来の市場を先取りする洞察」と「常識を覆す決断」があった。ウォークマン、カラーテレビ――これらの製品は、いずれもリーダーシップの力によって誕生した。
カラーテレビ ― 「家庭に夢を届ける」決断
1960年代、日本はまだ白黒テレビが主流だった。高度経済成長の波に乗り、テレビは一家団らんの象徴となりつつあったが、カラーテレビは高価であり「一部の贅沢品」に過ぎなかった。
当時の多くの経営者は「カラーテレビの普及はまだ先だ」と慎重だった。だが、ソニーは違った。盛田昭夫は「映像は必ずカラーの時代になる」と断言し、井深大は技術者に「最高の画質を目指せ」と檄を飛ばした。
「家庭の中に、夢と彩りを届ける。それがソニーの使命だ」
この信念のもと、ソニーはカラーテレビの量産化に踏み切った。他社が二の足を踏む中での決断はリスクを伴ったが、その挑戦が功を奏し、1970年の大阪万博を契機にカラーテレビは一気に普及。ソニーは「テレビといえばソニー」と言われるブランドを築いた。
この事例は、**「未来を先読みし、時代を動かす決断を下すリーダーシップ」**の典型だった。
ウォークマン ― 「市場にない需要」を見抜いたひらめき
ソニーの歴史を語るうえで、ウォークマンの登場は外せない。
1979年、ソニーは世界初の携帯型音楽プレーヤー「ウォークマン」を発売する。当時、社内外では懐疑的な声が多かった。
「録音機能がないのに、誰が買うんだ?」
「外で音楽を聴く習慣なんてない」
しかし、当時の会長・井深大は自らの直感を信じた。井深は音楽愛好家であり、飛行機での移動中に「気軽に音楽を持ち歩けたらいいのに」と考えていた。彼は技術者に小型カセットプレーヤーの開発を指示し、盛田昭夫も「若者のライフスタイルが変わる」と確信した。
発売当初、販売店からは「これは売れない」という反応が多かった。だがソニーは大胆なマーケティングを仕掛けた。若者が街を歩きながら音楽を聴く姿を広告で打ち出し、「音楽を持ち歩く」という新しい体験を提案したのだ。
結果は爆発的なヒット。ウォークマンは全世界で累計4億台以上を売り上げ、音楽の楽しみ方を根本から変えた。
この成功の本質は、**「存在しない市場を想像し、その未来を信じて決断したリーダーシップ」**にあった。
世界を席巻したソニーのブランド
カラーテレビとウォークマン、この二つの事例に共通しているのは、いずれも「まだ誰も欲しいと口にしていなかったもの」を信じ抜いた点である。
市場調査に頼れば、「外で音楽を聴く需要はない」「白黒で十分」という答えが返ってきただろう。だが、リーダーは数字ではなく未来を見た。未来の暮らしを思い描き、そのビジョンを信じて投資と開発に踏み切った。
そして重要なのは、単なるアイデアでは終わらず、組織全体を動かした点である。井深大も盛田昭夫も、自らの信念を言葉で語り、技術者を鼓舞し、社員を「夢の実現者」として巻き込んでいった。
こうしてソニーは、**「市場を創造する企業」**として世界に名を轟かせることになった。
第4章 市場支配から生まれた慢心
1. 「ソニー製なら必ず売れる」という神話
1990年代のソニーは、確かに眩しかった。ウォークマンは若者の必需品となり、トリニトロンテレビは世界中の家庭を彩っていた。CD、ビデオカメラ、ゲーム機……ソニーの製品は「持っていること自体がステータス」とされ、名刺にソニーと印字されているだけで一目置かれる時代だった。
この成功体験が積み重なるうちに、社内にはある種の神話が広がっていった。
「ソニー製なら必ず売れる」。
ある幹部会議で、若手が「競合が新しい方式の映像規格を開発している」と報告したときのことを、私は忘れられない。報告に耳を傾けた役員はこう言い放った。
「心配はいらない。我々が後から参入すれば、必ず市場はソニーに従う」
その場は笑いと拍手に包まれた。誰も異を唱えなかった。
だが私の胸には小さな違和感が生まれた。果たして本当にそうだろうか?世界は変わりつつあるのではないか?
神話は自信を生み出すが、同時に盲目を招く。ソニーはいつしか「市場を創る会社」から「市場に守られる会社」へと変わりつつあった。
2. 他社からの警鐘を無視した会議の空気
1990年代後半、松下電器(現パナソニック)やサムスンは猛烈な勢いでソニーを追い上げていた。彼らの強みは「コスト競争力」と「スピード」だった。韓国メーカーは数か月単位で新機種を出し、日本市場を席巻し始めていた。
ある日、社内の戦略会議で若い社員が勇気を出して発言した。
「サムスンの液晶テレビはコストと投入スピードで我々を上回っています。対応が遅れるとシェアを奪われかねません」
しかし会議室は静まり返り、重役の一人が口を開いた。
「サムスン?我々が本気を出せば、彼らに勝ち目はない」
その瞬間、空気が固まった。若手はそれ以上口を開けなかった。会議は予定調和の結論へと進み、「既存事業を強化する」という抽象的な言葉で締めくくられた。
こうした場面は決して一度きりではない。むしろ日常的に繰り返されていた。
他社の動向を軽視し、内部の論理で安心する――。この空気こそが「成功の呪縛」の現れだった。
3. 成功体験の罠
ソニーは確かに偉大な成功を収めてきた。トリニトロンは世界基準となり、ウォークマンは音楽文化を変えた。しかし、その成功体験こそが、次の変化への対応を鈍らせる原因となった。
ウォークマンの事例は象徴的だ。社内では「携帯音楽プレーヤー市場は我々のものだ」という自負が強すぎた。結果として、MP3という新しいフォーマットの波を軽視し、アップルに主導権を奪われることになる。
成功体験は本来ならば「挑戦の自信」に変わるべきものだった。しかしソニーでは「過去の勝利に縛られる呪縛」へと変質していった。
4. 慢心が生んだ影
「ソニー製なら売れる」という言葉は、かつては社員を鼓舞する力を持っていた。しかし90年代の終わりには、それは危うい慢心の象徴に変わっていた。
現場の技術者は薄々感じていた。「世界は変わっている。消費者は過去のブランドではなく、未来の体験を求めている」と。だが、その声は上層部には届かなかった。
私はその頃の会議を思い出すと、今でも胸がざわつく。あのとき、もっと多くの社員が声を上げられていれば。経営陣が謙虚に耳を傾けていれば。ソニーの未来は少し違っていたのではないか。
本章のまとめ
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成功の積み重ねが「ソニー製なら必ず売れる」という神話を生んだ。
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他社からの警鐘を無視し、社内での自己満足が会議を支配した。
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過去の成功体験が新しい挑戦を阻害する「呪縛」となった。
この「慢心」が、やがて組織の硬直化(第5章)、優柔不断な経営判断(第6章)へとつながり、ソニーの凋落の序曲となったのである。
第5章 組織構造の硬直化
1. 縦割り組織と社内競合
1990年代後半、ソニーの組織は外から見れば巨大で盤石に見えた。しかし、内部から見ると、部門ごとの壁は年々厚くなり、横の連携はほとんど機能していなかった。
テレビ部門は「トリニトロン」の成功に自信を持ち、ビデオ部門は「ベータマックス」の遺恨を抱えつつも独自路線を守ろうとした。PC部門は「VAIO」に未来を託し、オーディオ部門は「ウォークマンの王国」を死守しようと必死だった。
同じ会社でありながら、まるで別々の国が集まっているかのようだった。
会議ではしばしばこんなやりとりが交わされた。
「その新企画はテレビ部門の利益を食うのではないか?」
「それは我々の管轄だ。他部門が口を出すな」
本来ならば社内での競合は外への競争力を高めるはずだった。しかしソニーの場合、内部の縄張り争いが激しすぎて、むしろ外部への適応力を失わせていた。
2. 新規事業が潰される現場
私はあるとき、若手が提案した「インターネット対応の家電」の企画会議に同席した。彼は熱意を込めてこう語った。
「これから家庭の中にネットが入ってきます。テレビもビデオもPCも、すべてネットとつながる時代が来ます」
しかしその言葉が終わらないうちに、ある幹部が手を挙げた。
「それはテレビ部門の領域を侵す話だな」
別の幹部も続けた。
「オーディオとの境界もあいまいになる。我々の既存事業を混乱させるだけだ」
若手は必死に食い下がったが、最後には会議室に沈黙が広がり、「検討課題として持ち帰る」という曖昧な結論に終わった。その企画が日の目を見ることは二度となかった。
私はそのとき痛感した。ソニーには「新しい未来を見抜く眼」がある社員がいた。だが、その芽を守り育てるリーダーが不在だったのだ。
3. 経営の視野の狭窄
組織の硬直化は経営の視野を狭めた。部門の壁を守ることが優先され、会社全体としての未来図は描けなくなった。
会議室では「市場シェア」「販売台数」といった数値が細かく議論されたが、誰も「10年後に世界がどう変わるか」を語ろうとしなかった。経営陣の発言は次第に保守的になり、部門間の調整に時間を費やすばかりで、果敢な決断は先送りされるようになった。
ある技術者が私に漏らした言葉が、今も耳に残っている。
「俺たちは世界を変えるためにソニーに入ったんだ。でも今は、部門の縄張りを守るために働いている気がする」
その嘆きは、当時の社員の本音を代弁していた。
4. 「自由闊達」から「閉塞」へ
創業期のソニーは「自由闊達」という言葉に象徴される組織だった。井深や盛田の時代、若手が自由に発言し、失敗も許された。しかし90年代後半になると、その精神は影を潜め、「他部門に遠慮し、波風を立てない」ことが暗黙のルールとなった。
自由闊達な雰囲気は、閉塞感と自己防衛の空気に変わった。
そしてその閉塞感こそが、次に語る「優柔不断な経営判断」を生み出す土壌となっていったのである。
本章のまとめ
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縦割り組織と縄張り意識が、社内競合を激化させた。
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新規事業の提案は部門の壁に阻まれ、芽を摘まれた。
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組織の硬直化により、自由闊達な文化は失われ、閉塞感が蔓延した。
この硬直化こそが、ソニーの凋落を決定づける「リーダーシップの欠如」の具体的な姿であった。
第6章 優柔不断な経営判断
1. デジタル化の波に立ちすくむ
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、エレクトロニクス産業は急激なデジタル化の波に飲み込まれていった。
アナログからデジタルへ、音楽・映像・通信の境界が溶け合い、産業の地図そのものが書き換わろうとしていた。
ソニーは技術的にはデジタルの芽を持っていた。ATRACという独自の音声圧縮技術、光ディスク、半導体開発力。しかし問題は、これらをどう事業に落とし込むかという「経営判断」だった。
会議では何度も「新しい規格をどう扱うか」「既存技術との両立をどうするか」が議論された。だが、結論は出ない。部門間の利害が対立し、責任を取るリーダーが現れなかった。議論は繰り返され、気がつけば市場は先に動いていた。
2. MP3対応の遅れ ― ウォークマンの敗北
その典型がウォークマンの敗北である。
1998年、MP3という新しい音楽フォーマットが世界中で広まり始めた。インターネットから自由に音楽をダウンロードできる仕組みは、既存のレコード産業を揺るがす革新だった。
ソニーの技術者の一人が、ある会議で熱を込めて提案した。
「我々も早急にMP3に対応すべきです。この流れを逃すと、次世代の音楽プレーヤー市場を失います」
だが経営陣の答えは冷ややかだった。
「著作権保護の問題が解決していない。音楽業界を敵に回すわけにはいかない」
さらに、ソニーは自ら音楽ソフト会社(ソニー・ミュージック)を抱えていたため、経営陣は「不正コピーを助長する」との懸念からMP3対応に二の足を踏んだ。結果として、ウォークマンは自社独自規格ATRACに固執し続け、ユーザーから敬遠されるようになった。
その間にアップルは2001年、iPodを投入した。シンプルなデザインと直感的な操作性、そしてiTunesとの連携によるユーザー体験は圧倒的であった。ウォークマンが築いた市場は、わずか数年でiPodに奪われた。
この敗北は、技術力の差ではなかった。必要だったのは「時代の流れを読み取り、リスクを取って決断する」リーダーシップだった。
3. 半導体投資の迷走
もう一つの象徴が半導体投資である。
ソニーはCCDセンサーやメモリ技術など、半導体分野で世界トップクラスの技術を持っていた。しかし投資判断は迷走を繰り返した。
ある役員会で、技術部門の責任者が熱弁した。
「今こそ巨額投資をして、画像センサー市場を押さえるべきです。デジタルカメラも携帯電話も、これからはイメージセンサーが心臓部になります」
しかし会議室はざわついた。
「数千億円規模の投資はリスクが大きすぎる」
「まずは小規模で様子を見よう」
結局、投資は小出しにしか行われず、決断が遅れた。サムスンやTSMCが巨額投資でシェアを拡大する中、ソニーは波に乗り遅れたのである。
後年、イメージセンサーで世界首位を奪還したのは、平井一夫の時代に「選択と集中」が実行されてからのことだった。もし90年代のうちに決断が下されていたなら、ソニーのポジションはさらに盤石なものになっていただろう。
4. 「結論を出さない会議」の増殖
私が在籍していた頃、ソニーの会議には独特の空気があった。
机の上には大量の資料が並び、幹部たちは延々と数字やリスクを論じ合った。しかし、会議が終わる頃になると必ずこう言われた。
「もう少し検討が必要だな。次回に持ち越そう」
結論は出ない。誰も責任を負わない。時間だけが過ぎていった。
現場の社員は苛立ち、競合は次々と新製品を市場に投入していく。その差がやがて取り返しのつかない溝となった。
5. 本章のまとめ
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デジタル化の波に対し、ソニーは優柔不断な経営判断を繰り返した。
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MP3対応を遅らせ、ウォークマンはiPodに敗北した。
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半導体投資も決断できず、競合にシェアを奪われた。
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「結論を出さない会議」が経営文化となり、組織のスピードは完全に失われた。
優柔不断は単なる失敗ではない。それは「リーダーシップの不在」が組織文化に染み込んだ結果だった。ソニーが世界に後れを取った瞬間は、まさにこの時代に刻まれたのである。
第7章 リストラと人材流出
1. リストラの実行と現場の混乱
2000年代初頭、ソニーは業績悪化に直面し、経営陣は大規模なリストラを決断した。数字の上では「構造改革」と呼ばれたが、現場に降りてきたのは無慈悲な通知の山だった。
私自身も、その実行部隊の一員に加えられた。人事部から渡された封筒には、長年一緒に働いた同僚たちの名前が並んでいた。その瞬間、胸の奥に冷たい鉛を落とされたような感覚に襲われた。
ある日、私はひとりの同僚のデスクを訪れた。彼はいつものようにコーヒーを片手に、ディスプレイを覗き込んでいた。
「どうした?また新しい企画の相談か?」と、軽く笑いながら私を迎えた。
私は震える手で封筒を差し出した。彼は一瞬きょとんとした表情を見せ、やがて目が封筒の中身に落ちると、顔から笑みが消えた。しばらく沈黙が続いたあと、彼は小さな声でつぶやいた。
「子どもが来年、大学受験なんだ……」
私は何も言えなかった。彼の目に浮かんだ悔しさと戸惑いを前に、言葉は無力だった。
会議室の外で、社員たちは噂話を交わしていた。
「次はどこの部門が削られるんだ?」
「上は何を考えているんだろうな」
不安と不信が広がり、職場は重苦しい沈黙に包まれていった。
2. 社員のモラル低下
リストラは単に人数を減らすだけではない。残された社員の心も深く傷つけた。
「次は自分かもしれない」――その恐怖が、社員のモチベーションを蝕んでいった。かつては活気に満ちていた食堂の会話は、いつしか暗い愚痴に変わった。
「もう新しいことに挑戦しても無駄だ」
「どうせ上が潰すんだから」
この言葉が、当時の空気を物語っていた。
リーダーが「未来を描く言葉」を発しないとき、現場の社員は未来への信頼を失う。リストラは単なる人員削減ではなく、社員の誇りと希望を削る行為だった。
3. 優秀人材の流出
皮肉なことに、真っ先に会社を去っていったのは優秀な人材だった。
英語に堪能で海外でも通用する若手、デジタル技術に強いエンジニア、新規事業を提案し続けていた中堅社員――彼らは次々と外資系やベンチャーに移っていった。
ある後輩が退職の挨拶に来たとき、彼は苦笑しながらこう言った。
「ソニーに残るのは安全かもしれません。でも、未来は感じられないんです。外に出た方が、まだ夢を見られる気がします」
私は何も反論できなかった。彼の言葉は痛烈だったが、正直な本音だった。
人材流出は組織にとって二重の打撃となった。残された社員は不安を抱え、会社の競争力の源泉である知識や経験は外に流れ出していった。
4. リーダー不在の組織
本来ならば、リストラの時こそリーダーが前に立ち、「なぜ必要なのか」「どんな未来を描くのか」を語るべきだった。だが当時の経営陣から発せられたのは、「コスト削減」「効率化」といった冷たい言葉ばかりだった。
社員にとってそれは未来を示す言葉ではなかった。
リーダーシップとは数字を並べることではなく、人々を未来に向かわせる力である。だがその力は、ソニーから失われていた。
5. 本章のまとめ
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リストラは数字上の改革ではなく、社員の誇りと未来を奪った。
-
職場には不安と不信が広がり、挑戦の空気は消えた。
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優秀人材は外に流出し、組織の知的資産は失われた。
-
経営陣が未来を語らなかったことが、最大の問題であった。
リストラの痛みは避けられなかったかもしれない。しかし、その過程でリーダーシップが発揮されていれば、社員はまだ希望を持てたはずだ。
リーダー不在のままのリストラは、単なる「縮小均衡」しかもたらさなかった。そしてその影響は、次の章で語る「世界に追い抜かれるソニー」へと直結していったのである。
第8章 世界に追い抜かれるソニー
1. iPodとウォークマンの明暗
ウォークマンは1979年の登場以来、世界の音楽文化を変えた象徴的存在だった。
「音楽を持ち歩く」という体験は、ソニーが創造した文化そのものだった。ところが21世紀に入り、その象徴は一気に輝きを失う。
1998年ごろから普及し始めたMP3フォーマットに、ソニーは積極的に対応できなかった。自社の音楽レーベル事業との利害が絡み、著作権保護を重視するあまりユーザー体験を軽視したからだ。ソニーのプレーヤーは独自規格ATRACにこだわり、音楽ファイルを変換しなければ再生できなかった。
一方、2001年にアップルが発売したiPodは、シンプルなデザインと直感的な操作性を武器に市場を席巻した。さらにiTunesというソフトウェアと組み合わせ、「ユーザーが音楽を簡単に購入し、管理し、持ち歩ける」という体験を提供した。
当時、私の周囲の若い社員たちもこう嘆いていた。
「技術ではソニーが勝っているのに、どうして我々が負けるんだ」
答えは明白だった。
ソニーには技術があった。しかし「どの未来を選び取るのか」というリーダーシップが欠けていた。ユーザー目線ではなく、自社事業の都合を優先した結果、ウォークマンは文化の主役から降ろされてしまった。
2. サムスンのスピード経営
ソニーを追い抜いたのはアップルだけではない。韓国のサムスンは、家電から半導体に至るまで驚異的なスピードで成長を遂げた。
2000年代初頭、サムスンは新製品を数か月単位で市場投入し、デザインや機能を次々と更新した。日本のメーカーが年に1度のモデルチェンジにとどまるなか、サムスンは「市場の声を即座に反映する」スタイルでシェアを奪っていった。
私は当時、業界関係者からこんな話を聞いた。
「ソニーは試作機を検討している間に、サムスンはすでに市場で実験している。彼らは失敗を恐れず、次々と打ち手を出してくる」
ソニーの会議室では「リスクを避ける」議論が延々と続いていた。その間にサムスンは、多少の失敗を織り込みながらも市場で経験値を積み、結果的に製品の完成度を高めていった。
スピードと胆力――その差が、競争力の差となって表れた。
3. グローバル競争への対応不足
さらに問題だったのは、ソニーの経営陣がグローバル競争の本質を理解していなかったことだ。
日本国内でのブランド力や販売網に安住し、海外市場の変化を正しく捉えられなかった。
たとえば携帯電話事業。ソニーは「ソニー・エリクソン」として欧州で一定の存在感を持っていた。しかしスマートフォンの波においてはアップルとサムスンに大きく遅れを取り、結局は撤退を余儀なくされた。
社内のある会議で、若手社員が「スマートフォンはこれから人々の生活の中心になります」と発言したとき、幹部の一人はこう返した。
「電話はあくまで補助的な機器だ。我々の主戦場はテレビとオーディオだ」
その言葉に、会議室は静まり返った。若手は肩を落とし、誰もフォローしなかった。
未来を直視する言葉は、組織の中で生き残れなかったのだ。
4. 技術はあった。しかし生かせなかった
皮肉なことに、ソニーには「勝てる技術」があった。
メモリースティック、液晶技術、バッテリー、イメージセンサー――どれも世界トップレベルの資産だった。しかし、それらを市場に結びつける戦略が欠けていた。
アップルやサムスンがユーザー体験を最優先に据える一方で、ソニーは「部門ごとの論理」「既存事業の保護」に囚われていた。結果として、技術は宝の持ち腐れとなり、競争力を発揮できなかった。
5. 本章のまとめ
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ソニーはウォークマンで築いた市場を、iPodに奪われた。
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サムスンはスピード経営で市場を支配し、ソニーは議論に時間を費やした。
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グローバル市場への対応を誤り、スマートフォンなど成長分野で出遅れた。
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技術力はあったが、それを束ねるリーダーシップがなかった。
ソニーが世界に追い抜かれたのは、技術が劣っていたからではない。
「未来を信じて決断するリーダー」が不在だったからである。
第9章 株価の急落と信頼の喪失
1. 栄光からの転落
1990年代後半、ソニーの株価は2万円を超え、まさに「日本の象徴企業」として世界から注目を浴びていた。投資家は「ソニーが次に何を生み出すか」に期待し、社員は名刺を差し出すだけで誇りを感じられる時代だった。
しかしその後の10数年で、株価は急落を続け、2012年にはついに1,000円を割り込んだ。
かつて世界を驚かせた企業の株が、わずか10分の1以下にまで落ち込んだのである。
市場の評価は残酷だ。未来を信じられる企業には資本が集まり、信じられなくなった企業からは一気に資本が逃げる。ソニーは後者に転落した。
2. 社員の誇りの喪失
株価の下落は単なる数字の問題ではなかった。社員の心を折る出来事でもあった。
「ソニーの社員です」と胸を張って言えた時代から、「ソニーにいることが恥ずかしい」と感じる時代へ。
当時、私の同僚の一人は、飲み会の席で小さくため息をつきながらこう漏らした。
「親戚に株を勧めたんだ。あのときは『絶対安心だ』と思ってた。今じゃ顔向けできない」
別の後輩は、営業先で名刺を出すと、相手から「ソニーさん、大変ですね」と同情混じりに声をかけられたと話してくれた。
「昔は羨望の眼差しを向けられたのに、今は慰められる立場だなんて……」
彼の苦笑いには、悔しさと諦めが入り混じっていた。
社員食堂や休憩室では、かつて未来を語り合った会話が消え、「また株価が下がった」「早期退職の募集が拡大するらしい」といった話題ばかりになった。ソニーという名前に宿っていた誇りは、数字とともに音を立てて崩れ落ちていった。
3. 社会の視線の変化
かつてソニーは「日本企業の希望」と称賛された。ウォークマン、トリニトロン、プレイステーション――その名は世界中で未来の代名詞だった。
しかし2010年代に入ると、新聞や雑誌は「ソニー凋落」という言葉を繰り返し報じるようになった。テレビの経済番組で「かつての名門が苦境」と紹介されるたびに、社員たちは無言で画面を見つめた。
世間からの視線が「羨望」から「失望」へ、さらに「同情」へと変わっていくのを、私たちは肌で感じていた。
4. 信頼の喪失がもたらしたもの
株価の急落は、単に経済的な損失ではない。
それは「組織に対する信頼の崩壊」そのものだった。
投資家はソニーを信じなくなり、社員は自社を信じなくなり、社会もソニーを信じなくなった。
リーダーシップが欠けた組織は、数字を超えて「信頼」という見えない資産を失ったのだ。
ある時、社内の会議で幹部が「我々は必ず復活できる」と力強く言った。だが会議室に拍手は起きなかった。
社員の目は冷めていた。誰もが心の中でこう思っていたからだ。
――「その言葉を何度聞いたことか。行動で示してくれなければ信じられない」と。
5. 本章のまとめ
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栄光の株価2万円から、2012年には1,000円を割るまでに急落。
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株価下落は社員の誇りを奪い、「名刺を出すのが恥ずかしい」状況を生んだ。
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社会からの評価は「羨望」から「失望」、そして「同情」へと転落した。
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最大の損失は数字ではなく、「ソニーは未来を創る企業だ」という信頼を失ったことだった。
信頼を失った組織は、いかに技術や資産を持っていても動けなくなる。
ソニーが凋落の淵に立たされた本質は、まさにここにあった。
第10章 経営に必要だった謙虚さ
1. 謙虚さを忘れた経営陣
ソニーの経営者たちは、世界で数々のイノベーションを成し遂げた実績に大きな自信を持っていた。
その自信自体は当然である。ウォークマン、トリニトロン、プレイステーション――いずれも時代を切り拓く発明であり、企業を一気に世界的ブランドへ押し上げた。
だが2000年代に入る頃、その「自信」は「慢心」へと変わっていった。
市場の変化に耳を傾けず、社員や現場の声を軽視し、顧客の小さな不満を「取るに足らないもの」と見過ごした。
本来ならば、世界の成功体験を一度リセットし、謙虚に「いまの市場は何を求めているのか」「ユーザーはどこに不満を抱えているのか」を学び直す必要があった。
しかし経営層はその必要性を感じ取れなかった。
2. 現場の声が届かない組織
あるエピソードを紹介しよう。
2005年頃、ソニーのエンジニアたちは「スマートフォンの波が必ず来る」と警告を発していた。ウォークマンやエリクソンとの合弁で培った携帯電話技術を生かせば、アップルよりも早く市場をリードできる可能性があったのだ。
だが経営陣の答えは冷たかった。
「ソニーが作るべきは“電話”ではない。我々はエンターテインメント企業だ」
この言葉の裏には、「自分たちこそ市場を理解している」という慢心があった。
結果として、アップルがiPhoneを発表し、世界を席巻する。
ソニーは出遅れ、チャンスを永遠に失った。
3. 顧客への謙虚さの欠如
顧客に対しても同じだった。
ウォークマンのユーザーから「パソコンともっと簡単につなぎたい」「音楽を自由に管理したい」という声が上がっていた。
しかしソニーは著作権保護を理由に、不便なソフトウェアを押し付け続けた。
「これが正しい。ユーザーが間違っている」
経営陣のこうした態度は、顧客の心を遠ざけた。
アップルのiTunesは、逆に顧客の声に耳を傾け、「シンプルで直感的な操作」を実現した。結果として音楽市場の覇権を奪われ、ソニーは自らの牙城を明け渡すことになった。
4. 謙虚さは学びを生む
本来、謙虚さとは単なる「頭を下げる姿勢」ではない。
それは「自分がすべてを知っているわけではない」という前提から生まれる学びの姿勢である。
謙虚さを持つ経営者なら、
-
現場の声に真剣に耳を傾ける
-
顧客の小さな不満を見逃さない
-
過去の成功に固執せず、新しい価値を模索する
こうした習慣が組織文化として根付く。
しかしソニーの経営陣は「自分たちは世界のトップだ」という思い込みに囚われ、学ぶ姿勢を失っていた。
その結果、技術力や人材といった豊かな資産を持ちながら、それを未来につなげられなかったのである。
5. 本章のまとめ
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ソニーの経営層は、自信を「慢心」へと変質させ、市場の変化に謙虚に向き合えなかった。
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現場の警告(スマートフォンの波)を無視し、顧客の声(音楽管理の不便さ)を軽視した。
-
謙虚さは単なる「態度」ではなく「学びの力」。それを失ったことで、ソニーは市場から取り残された。
結局、ソニーが失った最大の資産は「謙虚に学ぶ姿勢」だった。
それがあれば、技術力も人材も十分に未来を切り拓けたはずである。
第11章 カリスマ経営の終焉
1. 井深・盛田のカリスマが生んだ黄金期
ソニーの創業者、井深大と盛田昭夫は、まさに「カリスマ経営者」と呼ぶにふさわしい存在だった。
井深は技術者として「人々の生活をより豊かにする夢のある製品」を追い求め、盛田は営業・経営の才覚で世界市場を切り開いた。
この二人の個性が交わることで、ソニーはウォークマンやトリニトロンといった革命的製品を生み出し、世界的企業へと成長した。
社員も社会も「カリスマの言葉」に心を動かされ、会社全体が強い求心力でまとまっていた。
しかし、カリスマ経営には光と同時に影がある。
創業者の強烈な個性とリーダーシップに依存しすぎると、組織は「考える力」を失い、自律性を持てなくなるのだ。
2. カリスマ不在が残した空白
井深・盛田の時代が終わると、ソニーは新たなリーダーを探さねばならなくなった。
だがその後の経営陣は「第二の盛田」や「第二の井深」として比較され続け、常に創業者の影に苦しむことになる。
エピソードとして語られるのは、1990年代後半の社内会議だ。
ある若手役員が「次の成長戦略にはインターネットを基盤とした事業展開が不可欠です」と提案した。
しかし年長の経営陣はこう返した。
「井深さんならどう考えただろう? 盛田さんなら賛成するだろうか?」
結局、この問いに誰も答えられず、議論は立ち消えとなった。
カリスマが不在となった組織は、自分自身で意思決定を行う勇気を失っていたのである。
3. カリスマの呪縛
ソニーの社員たちは「創業者ならどう判断したか」を拠り所にし続けた。
一見、伝統を重んじる姿勢のように見えるが、裏を返せば「自ら未来を切り拓く責任を回避する姿勢」でもあった。
こうしてソニーは、アップルやサムスンといった新興勢力が大胆に未来を描く中、過去の成功体験に縛られて動けない組織へと変わっていった。
カリスマの残影は誇りであると同時に、企業を縛る鎖となっていたのだ。
4. 時代が変わった
21世紀に入り、経営環境は大きく変化した。
一人のカリスマの言葉だけで市場を動かせる時代ではなくなった。
-
技術革新のスピードが加速し、意思決定にスピードと柔軟性が求められる
-
グローバル市場では多様性が前提となり、単一のリーダーシップでは通用しない
-
顧客の声がSNSを通じて即座に広がり、企業が一方的に方向を決めることができなくなった
こうした時代には、「一人のカリスマ」ではなく「組織全体の学習力と柔軟性」が不可欠となった。
5. ソニーに必要だったリーダーシップの転換
本来、ソニーが歩むべきだった道は「カリスマ経営からの脱却」である。
つまり、
-
トップに依存するのではなく、組織全体で未来を考える文化をつくること
-
多様な声を取り込み、チームとして意思決定する仕組みを育てること
-
市場や顧客に謙虚に学び続ける姿勢を持つこと
こうした「分散型リーダーシップ」への転換ができていれば、ソニーはカリスマ不在の空白を乗り越えられただろう。
6. 本章のまとめ
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ソニーは井深・盛田というカリスマ経営者の存在によって黄金期を築いた。
-
しかし、カリスマの不在が「意思決定できない組織」という空白を生んだ。
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創業者の残影は誇りであると同時に、未来を描く力を奪う「呪縛」となった。
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21世紀に必要だったのは「分散型リーダーシップ」への転換であり、カリスマ依存からの脱却であった。
第12章 リーダー不在の混乱
1. カリスマの後継者を探して
井深・盛田というカリスマ経営者を失ったソニーにとって、最大の課題は「次のリーダーは誰か」という問いであった。
だが、その答えは簡単には見つからなかった。
創業者と同じようなカリスマ性を持つ人物は現れず、歴代の社長たちは「第二の盛田」「第二の井深」として比較され続けた。
その結果、就任直後から「本物のリーダーではない」というレッテルを貼られ、権威を十分に発揮できないまま退任していくケースが相次いだ。
2. トップ交代の連鎖
1990年代から2000年代にかけて、ソニーはトップ交代を繰り返した。
社長が数年ごとに交代し、そのたびに新しいスローガンや改革案が打ち出される。
-
ある社長は「デジタル化への集中」を掲げたが、現場はついてこず成果が出ないまま終わった。
-
次の社長は「エレクトロニクス回帰」を打ち出したが、前任者の方針を覆したために混乱を招いた。
-
さらにその次の社長は「エンターテインメントとITの融合」を掲げたが、組織の壁に阻まれて実現できなかった。
こうしてソニーは、トップ交代のたびに「新しいスローガン」だけが残り、実際の戦略や成果は積み上がらないという悪循環に陥った。
3. ビジョンなき漂流
リーダーの交代が繰り返される中で、社員たちは次第に「また新しい改革か」と冷めた目で見るようになった。
現場からはこんな声が聞かれた。
「結局、数年後には方針が変わるんだろう」
「上が何を言っても、現場は動かない方が安全だ」
こうした空気が社内に蔓延し、挑戦よりも保身が優先される文化が広がった。
ビジョンが見えない組織では、人材が育たず、優秀な人材ほど外へ流出していった。
4. リーダー不在の象徴的事件
リーダー不在の混乱を象徴する出来事の一つが、音楽事業における「MP3プレイヤーへの対応の遅れ」である。
ソニーは自社の著作権保護技術に固執し、社内で「MP3を採用すべきか否か」の議論が何年も続いた。
本来ならトップが明確に方向性を示すべきだったが、経営陣は結論を出せずに先送りを繰り返した。
その間にアップルはiPodを発売し、市場を一気に支配してしまった。
この事件は、ソニーが「決められない組織」となったことを社内外に示す象徴的な出来事となった。
5. グローバル競争の中での迷走
同じ時期、サムスンやLGといった韓国企業は、明確なリーダーの下で組織を一丸とし、液晶テレビやスマートフォンの分野で急成長を遂げていた。
一方のソニーは、トップが代わるたびに方向性が変わり、組織は混乱。
世界市場での競争力は急速に低下していった。
「リーダーがいない」ということは、単に社内の問題ではなく、国際競争において致命的な弱点となったのである。
6. 本章のまとめ
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井深・盛田の後継者不在により、ソニーはトップ交代を繰り返した。
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各社長は異なるスローガンを掲げたが、実行力を欠き、成果は積み上がらなかった。
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社内は「どうせまた変わる」という冷めた空気に覆われ、挑戦よりも保身が優先されるようになった。
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MP3への対応遅れなど、リーダー不在の弊害が顕在化した。
-
グローバル競争において、ソニーは方向性を失った組織として劣勢に立たされた。
第13章 復活を模索する現場
1. 絶望の中の希望の芽
トップ交代が続き、ビジョンが見えなくなったソニー。しかし、その内部では「現場」からの小さな挑戦が次々と芽生えていた。
大企業の組織が硬直しても、現場の技術者はものづくりへの情熱を失ってはいなかった。
ある若手エンジニアは語っている。
「上が迷走していても、自分たちが本当に良いと思えるものを作りたい。それがソニーの魂だと思っていた」
この思いが、混迷期のソニーにおける数少ない希望の光となった。
2. プレイステーションの躍進
復活を模索する現場の象徴が、プレイステーションである。
ゲーム事業は当初、社内では軽視されていた。「玩具の延長」という冷ややかな視線を浴び、事業化すら危ぶまれた時期もあった。
しかし開発陣は諦めなかった。半導体部門、音楽・映像部門と連携し、ソニーならではの総合力を活かした家庭用ゲーム機を完成させる。
1994年に発売された初代プレイステーションは世界中で大ヒット。2000年に登場したPS2は累計1億5,000万台以上を売り上げ、ソニーを支える巨大な収益源となった。
経営陣が迷走する中でも、現場の粘り強さと創造力が企業を救った象徴的な事例である。
3. デジタルカメラとイメージセンサー
また、ソニーはデジタルカメラやCMOSイメージセンサーの分野でも成果を挙げた。
1990年代後半から2000年代にかけて、カメラ部門は「次世代の目」としてのセンサー開発に力を入れる。
特にスマートフォン時代が到来すると、ソニー製のイメージセンサーは世界市場の半数以上を占めるほどに成長。
これは、表舞台では目立たないながらも、現場技術者が積み重ねた努力の賜物であった。
ある技術者はこう述懐している。
「会社全体が迷走していても、自分たちの技術が世界を動かしていると信じていた」
4. 音楽事業での再起
一方で、音楽事業も地道な再起を遂げていた。
アップルのiPodに敗北し、ソニーの音楽プレイヤーは市場を失ったかに見えた。
しかしソニー・ミュージックは、世界的アーティストのマネジメントや楽曲配信事業に活路を見出し、収益を再び安定させていった。
この流れが後に「音楽ストリーミング時代」の基盤となり、再びソニーが強みを発揮する土台を作った。
5. 「ソニーらしさ」を守る現場
混乱の中で現場が掲げた合言葉は「ソニーらしさ」だった。
それは「人々をワクワクさせる製品をつくること」「技術で未来を切り拓くこと」。
あるベテラン社員は次のように語っている。
「会社の上層部がどんなに迷走しても、ソニーがソニーである限り、我々は“驚き”を届けなければならない」
この精神が受け継がれたからこそ、ソニーは完全に崩壊することなく、復活への道筋をつなぐことができたのである。
6. 本章のまとめ
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リーダー不在の混乱期でも、現場はものづくりへの情熱を失わなかった。
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プレイステーションの成功は、ソニー復活の象徴となった。
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イメージセンサーは世界のスマートフォン市場を支える基盤事業へ成長した。
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音楽事業は敗北から立ち直り、ストリーミング時代の布石を打った。
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「ソニーらしさ」を信じ続けた現場の姿勢が、再生の芽を守った。
第14章 新世代の挑戦
1. 瀕死からの再出発
2010年代初頭のソニーは、赤字続きで「解体か、復活か」という瀬戸際にあった。
かつて「ウォークマン」「トリニトロン」で世界を席巻した企業が、サムスンやアップルに押され、かつての輝きを失っていた。
「このままではソニーはなくなる」
現場だけでなく経営層までもが、もはや危機感を隠せなかった。
そこで登場したのが、新世代のリーダーたちだった。
2. 平井一夫の改革
2012年、CEOに就任した平井一夫は、エンターテインメント畑出身の異色のトップだった。
ゲーム、音楽、映画を統合的に見る視点を持ち、「One Sony(ワン・ソニー)」を掲げた。
彼の第一の改革は「選択と集中」である。
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赤字続きのPC「VAIO」を売却
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テレビ事業は分社化して収益管理を徹底
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将来性のあるイメージセンサー、ゲーム、音楽・映画を重点事業に設定
「ソニーは何を強みとするのか」を改めて定義し直したのである。
3. プレイステーション4の大成功
2013年に発売された**プレイステーション4(PS4)**は、平井改革の象徴となった。
シンプルな操作性とオンラインサービスの拡充で、全世界で1億台を超える販売を記録。
ゲームネットワークサービス(PSN)は課金モデルで安定収益を生み出し、ソニーの屋台骨となった。
現場の技術力と新世代の経営判断が結びついた瞬間だった。
4. イメージセンサーの世界制覇
もう一つの柱が、CMOSイメージセンサー事業である。
スマートフォン時代の到来により、各社が高性能カメラを搭載する競争に突入。
その中心にいたのがソニーの技術だった。
AppleのiPhoneをはじめ、世界中のスマートフォンにソニー製センサーが採用され、世界シェアは一時50%を超えた。
「気づけば、世界中の人がソニーの“目”を使っていた」
これは復活への静かな勝利宣言であった。
5. エンターテインメントでの再興
ソニーはまた、音楽と映画の分野でも力を発揮した。
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ソニー・ミュージックは、ビヨンセやアデルといった世界的アーティストの楽曲を支え、配信事業を強化。
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ソニー・ピクチャーズは「スパイダーマン」シリーズをリブートし、マーベルとの提携で世界的大ヒットを実現。
「コンテンツの力」を信じる平井の戦略が実を結び、ソニーは再び文化産業の中心に戻った。
6. 若手の挑戦が生む新しい流れ
この時期、現場でも若手社員の挑戦が後押しされた。
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aiboの復活:AI技術を用いた新世代ペットロボットとして再登場
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音響事業:ハイレゾ音源やノイズキャンセリング技術で高付加価値市場を開拓
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映像事業:プロフェッショナル向けカメラでハリウッドの現場を支える
「小さな挑戦を積み重ねることが、ソニーの未来を作る」
そうしたマインドが社内に広がっていった。
7. 本章のまとめ
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新世代リーダー・平井一夫は「ワン・ソニー」を掲げ、選択と集中を断行した。
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PS4の大成功がソニー復活の象徴となった。
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イメージセンサー事業はスマートフォン時代の勝者として世界を席巻。
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音楽・映画などエンタメ事業でも再興を果たした。
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若手社員の挑戦が、ソニーの新しい文化と可能性を広げた。
第15章 グローバル市場での復権
1. ソニー復活の兆し
2010年代半ば、ソニーはようやく赤字からの脱却を果たし、黒字基調へと転じた。
それは単なる一時的な回復ではなく、「グローバル競争で再び戦える体制」が整ったことを意味していた。
市場では「ソニーは再び蘇った」との声が広がり始めた。
だが、それはまだ序章にすぎなかった。
2. 世界でのブランド再評価
長年低迷していたソニーのブランド価値は、2010年代後半から急回復する。
インターブランド社の「世界ブランド価値ランキング」では、ソニーは再び上位へと食い込んだ。
その背景には、
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PS4の世界的成功
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イメージセンサーによる“隠れた覇者”としての地位
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ハリウッド映画や音楽ヒットによる文化的影響力
があった。
「ソニーはやはり世界に欠かせないブランドだ」
消費者の心にそう刻み直すことに成功したのである。
3. グローバル戦略の柱
ソニーの復権を支えたのは、三つの事業領域だった。
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ゲーム&ネットワーク
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世界中の若者がPS4を中心にオンラインでつながる。
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PS Plusのサブスクリプションモデルは安定収益を生み、アップルやNetflixに並ぶデジタルプラットフォームへと成長した。
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イメージング&センサー
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世界のスマートフォンカメラの多くにソニー製センサーが搭載。
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Apple、Samsung、中国勢の主要メーカーを顧客に抱え、業界の「インフラ企業」としての地位を確立。
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エンターテインメント
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ソニー・ミュージックがグローバル配信市場で優位を拡大。
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ソニー・ピクチャーズは「スパイダーマン:ホームカミング」「ヴェノム」などで世界的大ヒットを飛ばし、マーベルとの協業でシェアを伸ばした。
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この三本柱が、世界市場でのソニー復権を支える基盤となった。
4. 中国・インド市場への再挑戦
ソニーがかつて苦戦した中国・インド市場でも、新たな動きがあった。
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中国:スマホ市場では敗北したが、イメージセンサーの供給で巨大な収益を確保。
-
インド:PlayStationや音楽配信サービスを軸に新しい顧客層を開拓。
「製品ではなくプラットフォームで勝つ」という戦略転換が、成長市場での復権を後押しした。
5. 投資家の信頼回復
世界市場での業績改善は、株式市場にも反映された。
長らく停滞していたソニー株価は2017年以降急騰し、時価総額は再び10兆円規模へ。
「ソニーはもはや沈まない」
そう投資家に思わせることができたのは、事業の持続可能性を示したからだった。
6. 社員の誇りの復活
グローバル市場での成功は、社員の士気を大きく高めた。
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かつてリストラで暗かったオフィスに、再び活気が戻った。
-
世界各地のソニーファンからの声が社員を励ました。
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「ソニーに勤めていることが誇り」と若手社員が口にするようになった。
復権とは単なる業績回復ではなく、企業文化そのものの再生を意味していた。
7. 本章のまとめ
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世界市場でソニーのブランド価値は再び高まった。
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ゲーム、センサー、エンタメの三本柱が復権を支えた。
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中国・インドなど新興市場でも戦略転換が功を奏した。
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投資家の信頼を取り戻し、株価は急回復した。
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社員の誇りと企業文化の再生が「真の復権」を形作った。
第16章 イノベーションの再定義
1. 復活から次なる問いへ
2010年代後半、ソニーは世界市場で復権を果たした。
ゲーム、イメージセンサー、エンターテインメント。
三本柱の安定した収益は、企業を再び黒字体質へと変えた。
しかし、経営陣の頭には次の問いが浮かんでいた。
「この成功を10年先も続けられるのか?」
「ソニーらしい“ワクワクする未来”を再び示せるのか?」
復権はゴールではなく、新しい挑戦のスタートだった。
2. 過去の「イノベーション神話」の終焉
かつてのソニーは、「ウォークマン」「トリニトロン」「プレイステーション」のように、世の中を驚かせる革新的製品を連発してきた。
だが2000年代以降、その神話は崩壊した。
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製品単体では模倣されやすい
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技術優位も短期間で陳腐化する
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ネットワーク時代は「体験」や「エコシステム」が価値を生む
つまり「モノを作れば売れる時代」は完全に終わっていた。
3. ソニーが再定義したイノベーションの概念
ソニーが導き出した答えは、「イノベーション=製品開発」ではなく、
「人と人、人と社会をつなぐ新しい体験を創り出すこと」 だった。
これは、技術主導の発明から「顧客体験主導のイノベーション」への転換を意味した。
4. 具体的な挑戦
ソニーは「体験創造企業」へと進化するため、いくつかの挑戦を始めた。
-
エンタメとテクノロジーの融合
ハリウッド映画、音楽、PlayStationネットワークを掛け合わせ、
世界中の人々が「ソニーの世界観」でつながる体験を提供。 -
AIとセンシングの応用
自動運転車向けの車載センサーや、医療分野の画像診断技術など、
「人の暮らしを変えるBtoBイノベーション」へ展開。 -
ソニーのビジョン:感動を届ける
「人の感性に寄り添うテクノロジー」を掲げ、
単なる効率化や便利さではなく、「感動」「共鳴」「つながり」を重視。
5. 「ソニーらしさ」の再発見
社内では議論が繰り返された。
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「私たちは技術屋なのか、エンタメ企業なのか?」
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「大企業としての効率性と、“遊び心”をどう両立するか?」
結論として導かれたのは、ソニーの原点である「遊び心と挑戦心」だった。
ソニー創業者・盛田昭夫と井深大が語った「人々を楽しませ、驚かせるものをつくろう」という精神を再解釈し、現代的にアップデートしたのである。
6. 社員が感じた変化
新しいイノベーション観は、社員の働き方にも影響を与えた。
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「プロジェクトに“遊び”を取り入れる」文化が復活
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若手社員が自由に発想を試せるインキュベーション制度を導入
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「失敗してもいい」という雰囲気が生まれ、心理的安全性が高まった
かつて硬直していた組織に再び「創造の風」が吹き始めた。
7. 本章のまとめ
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復権を果たしたソニーにとって課題は「次の成長」をどう作るかだった。
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イノベーションを「製品開発」から「体験創造」へと再定義した。
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エンタメ、AI、センシングを融合し、人の感性に寄り添う方向を打ち出した。
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社員の中に再び「遊び心」と「挑戦心」が芽生えた。
第17章 ソニーと社会的責任
1. 企業の存在意義を問われる時代
21世紀に入り、企業は単に利益を追求するだけでは評価されなくなった。
気候変動、格差拡大、情報の分断。
世界が直面する課題に対して、グローバル企業には「社会的責任(CSR)」が強く求められるようになった。
ソニーも例外ではなかった。復権を果たした後、経営陣は次の問いに向き合った。
「ソニーは社会にとって何を意味する存在なのか?」
「人々を楽しませるだけでなく、世界をより良くする役割を果たせるのか?」
2. CSRからサステナビリティ経営へ
ソニーは早くからCSR活動を行ってきた。
森林保全や地域社会への寄付、災害支援など、多様な活動を展開してきたが、2010年代後半になるとそれだけでは不十分だと感じるようになった。
なぜなら、社会からは「企業活動そのものが持続可能性に資するべきだ」という期待が高まっていたからだ。
そこでソニーはCSRを超えて「サステナビリティ経営」へとシフトした。
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環境配慮:製品のライフサイクル全体でCO₂排出削減に取り組む
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人権意識:サプライチェーン全体での労働環境改善を推進
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ガバナンス:透明性の高い情報開示と、株主だけでなく社会への説明責任
3. 環境への挑戦 ― 「Road to Zero」
ソニーが象徴的に掲げたのが、「Road to Zero」 という環境ビジョンだった。
これは、2050年までに環境負荷をゼロにするという長期目標である。
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再生可能エネルギーの導入
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製品リサイクルの仕組みづくり
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プラスチック使用の大幅削減
例えば、ヘッドホンのパッケージを100%リサイクル可能な紙素材に切り替えたことは、ユーザーにも分かりやすい象徴的な施策だった。
4. 社会課題への取り組み
ソニーは「エンタメとテクノロジー」を活かして社会課題にも挑戦した。
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教育支援
世界中の子どもたちに科学やアートを学ぶ機会を提供する「ソニー・サイエンスプログラム」を展開。 -
障がい者支援
視覚障がい者向けの音声ナビ機器や、聴覚障がい者向けの字幕技術を開発。 -
医療領域への応用
画像センサー技術を活用した早期がん検診システムを研究。
ソニーにとって「社会的責任」とは、慈善活動ではなく、自らの技術と事業を活かして社会に貢献することだった。
5. 社員意識の変化
サステナビリティ経営の推進は、社員の意識にも大きな影響を与えた。
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「利益のために働く」から「社会を良くするために働く」へ
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若手社員の志願によるボランティア活動が活発化
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採用活動でも「社会課題解決に関わりたい」という学生がソニーを志望するようになった
かつて“プロダクトのソニー”と言われた会社が、いつしか“社会価値を創るソニー”へと変貌していった。
6. 利益と責任の両立の難しさ
一方で、現実は理想通りには進まなかった。
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環境対策はコストがかかり、短期的利益を圧迫する
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サプライチェーンの改善は、取引先の反発を招くこともある
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株主からは「社会責任よりも収益を」との圧力がかかる
経営陣は常に「利益と責任のバランス」に悩まされ続けた。
それでも、ソニーは「長期的に見れば責任を果たすことが競争力になる」と信じ、歩みを止めなかった。
7. 本章のまとめ
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企業は利益追求だけでなく、社会的責任を果たすことが不可欠になった。
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ソニーはCSRから「サステナビリティ経営」へと移行した。
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環境、教育、障がい者支援など、技術を活かした社会貢献に挑戦した。
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利益との両立は難しいが、長期的にはブランド力と人材獲得につながった。
第18章 未来へのビジョン
1. 過去から未来へ
ソニーの歴史を振り返ると、いくつかの大きな転換点があった。
戦後の創業期には「自由闊達な発想で世界を驚かせる」という夢を追い、
ウォークマンやプレイステーションといった製品で世界中に文化を生み出した。
しかし21世紀に入り、経営危機や組織硬直化に苦しみ、存在意義すら問われる時期を経験した。
そこから復権し、さらに「社会的責任」を背負う姿へと変貌した今、ソニーは次の問いに直面している。
「次の世代に、ソニーはどのような未来を残すべきか?」
2. ビジョンの核 ― 「人間の可能性を拡張する」
ソニーが掲げた未来ビジョンの核は、「人間の可能性を拡張する」 という理念だった。
単なる技術革新や娯楽の提供ではなく、人類の知性・感性・社会性を広げる存在になること。
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感性を拡張する:音楽、映像、ゲームなどを通じて人の心を豊かにする
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能力を拡張する:AIやロボティクスで学びや仕事の可能性を広げる
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共生を拡張する:テクノロジーを活かして人と自然、人と人の共生を支える
ソニーの未来像は、「人とテクノロジーの共進化」を目指すものとなった。
3. テクノロジーと人間の融合
未来のソニーは、従来の“製品を売る会社”ではなく、「体験を提供する会社」 へと進化する。
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AIと共に学ぶ教育体験
学校教育にAIを「もう一人の先生」として導入し、個々の子どもの学びを支援する。 -
メタバースとエンターテイメント
映画・音楽・ゲームをシームレスに融合させた没入型体験を世界中の人々に提供する。 -
医療とウェルビーイング
センサー技術や映像処理を医療に応用し、病気の早期発見や高齢者の生活支援に活かす。
こうした未来像は、「ソニーが人間の幸福と可能性を広げる触媒になる」という方向性を示していた。
4. 地球と共に生きる企業へ
未来ビジョンのもう一つの柱が、「地球との共生」 である。
ソニーは2050年に環境負荷ゼロを目指す「Road to Zero」を超え、さらに次の世代へとつながる環境経営を構想した。
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カーボンニュートラルから「カーボンポジティブ」へ
(排出をゼロにするだけでなく、地球環境を改善する) -
廃棄物ゼロのサプライチェーン構築
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生物多様性保全を含めた地球規模の取り組み
単に「責任を果たす企業」から、「未来を創る企業」への進化を目指した。
5. 世代を超えた挑戦
未来へのビジョンを実現するのは、現経営陣だけではない。
むしろ重要なのは、これからの新世代の社員、起業家、研究者たちである。
ソニーは「失敗を恐れず挑戦する文化」を改めて社内に根付かせ、若者が自分のアイデアで世界を変える場を提供しようとしている。
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社員が自ら事業を立ち上げられる「社内スタートアップ制度」
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グローバルの若手研究者とのオープンイノベーションプラットフォーム
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学生やクリエイターと共に未来をデザインする「ソニー未来フォーラム」
未来をつくるのは一部の天才ではなく、挑戦する無数の人間の力である――この理念が共有されていった。
6. 本章のまとめ
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ソニーの未来ビジョンは「人間の可能性を拡張する」ことにある。
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技術と人間を融合させ、教育・医療・エンタメに新しい体験を提供する。
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環境負荷ゼロを超え、「地球をより良くする企業」への挑戦を掲げる。
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世代を超えた挑戦を促し、未来を共創する文化を育てる。
終章に向けて
ここまで見てきたように、ソニーは浮沈を繰り返しながらも、自らの存在意義を問い直し続けてきた。
そして「社会に必要とされる企業」からさらに進み、「未来を創る企業」へと歩みを進めている。
その旅はまだ終わっていない。
むしろ、これからが本当の挑戦である。
ソニーの未来とは、私たち一人ひとりの未来の鏡である。
。
エピローグ 「未来を共に創る」
本書を通じて描いてきたのは、ソニーという一企業の歴史や経営戦略にとどまらない。
そこには、変化の時代に人間と社会がどう歩むべきか という普遍的な問いが流れていた。
ソニーは創業以来、時に成功し、時に迷走しながらも、常に挑戦をやめなかった。
技術を超え、文化を生み、人々の感性を揺さぶり、やがて社会的責任を担う存在へと成長していった。
この歩みの中に私たちが学べるものは少なくない。
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革新は孤立した天才からではなく、共創する場から生まれる
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企業は利益を超えて、社会と地球にどう貢献するかを問われる
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未来を創る力は、次の世代の挑戦に託されている
ソニーの歴史は、日本企業の可能性を示すだけでなく、世界の人々が「人間らしい豊かさ」をどう実現するかを考える鏡でもある。
読者へのメッセージ
私たちは今、かつてない変革の時代に生きている。
AI、気候危機、人口構造の変化、グローバル資本主義の波――
こうした課題は一企業や一国だけでは解決できない。
だからこそ、「未来をどう描くか」 が一人ひとりに問われている。
ソニーが挑んできたように、失敗を恐れず、可能性を信じ、他者と共に未来を創ろうとする姿勢が求められているのだ。
本書を閉じる今、あなたに問いかけたい。
あなたは、どのような未来を描きたいだろうか?
そして、その未来を実現するために、今日からどんな一歩を踏み出せるだろうか?
未来は与えられるものではない。
未来は、共に創り出すものである。
学歴
2015-2017
大学名
これはあなたの学歴の説明です。あなたの学位、あなたの研究、他のハイライトを簡潔に説明してください。また、関連するスキル、功績、および画期的な出来事も必ず加えましょう。サブタイトルの学歴年数を忘れずに調整してください。
2011-2014
大学名
これはあなたの学歴の説明です。あなたの学位、あなたの研究、他のハイライトを簡潔に説明してください。また、関連するスキル、功績、および画期的な出来事も必ず加えましょう。サブタイトルの学歴年数を忘れずに調整してください。
2007-2010
大学名
これはあなたの学歴の説明です。あなたの学位、あなたの研究、他のハイライトを簡潔に説明してください。また、関連するスキル、功績、および画期的な出来事も必ず加えましょう。サブタイトルの学歴年数を忘れずに調整してください。



